甘いコーヒーも悪くない

石が水面をはじいていく。
一、二、三、四、五、六、七までは数えた。
段々勢いがなくなり、沈んでいく。水面にできた円の輪も消える。

子供の頃、エヌ氏は弟とよく川辺で石を投げて遊んだ。体力的には弟の負けるエヌ氏だが、なぜか石投げはうまかった。水面を十回弾かすことだってできた。弟の羨望の目を感じ夢中で投げ続けていた。

 

しゃがみ込んで、次に投げる石を拾おうとした。突然目の前が真っ暗になった。
「だあれだ」と娘の声がした。驚いたふりをして、後ろへ倒れる。
人の気配が消える。
しばらくして目を開け振り返ると、娘は、楽しそうに妻と話している。

 

エヌ氏は、休みの日に妻と娘と自転車でよく出かける。娘は今年9歳になる。
近くの公園であったり、少し遠いが今日のように大和川に出かけることもある。妻が先頭で、娘が続き、エヌ氏は最後を走る。アヒルの行列をみたいだと思う。でも、3人では、アヒルの行列にしては短すぎるし、第一アヒルの行列には、父親は不要だ。そんなことを思いながら苦笑いをする。
エヌ氏は川が好きだ。水面がきらきら輝いていると安心する。

 

エヌ氏は小学生の頃から体が弱く、よく学校を休んだ。学校を休むと二階で一人寝ていた。当時、家の二階からは近くの小川が見えた。やはり水面はきらきら輝いていた。

今はさすがに会社を休むことはあまりないが、それでもよく風邪を引く。二年前には疲れがたまって二週間ほど入院したこともある。

 

エヌ氏の実家は、食堂を経営しており、両親は日中は家にはほとんどいなかった。そんなこともあり、エヌ氏は、平日はほとんど弟と過ごしていた。弟は、エヌ氏と違い体が丈夫で活発な少年だった。弟には、相撲をしても勝てなかった。弟は家ではほとんど勉強はしなかったが、学校の成績はクラスでトップだった。身長も弟の方が高く、年子であったこともあり、知らない人には、エヌ氏が弟とよく間違えられた。でも、不思議と腹は立たなかった。

 

エヌ氏は、大学を出て中堅の建設会社に勤め今年で28年になる。32歳で結婚し、40歳で子供が生まれた。5年前には、自宅を買った。自分なりに一生懸命やってきたと思う。妻とは、先輩の紹介で知り合い、半年付き合って結婚した。自分で言うのも何だが妻の方が積極的だったと思う。よく笑い、どちらかというと奥手なエヌ氏には新鮮な女性であった。付き合ってしばらくして「俺と付き合って楽しいか?」と聞いたことがある。妻は不思議そうな顔をし、しばらくしてから、「ヒ・ミ・ツ」と答えた。そのときエヌ氏は、結婚するかもしれないと感じた。

 

両親は、本当はエヌ氏に食堂を継いでほしかったのかもしれないと思う。自分は田舎にいるのがいやで、大阪の大学を受けた。そんなとき弟が、店を継ぐと言い出した。両親と弟がどのような話をしたのかは知らない。私は黙っていた。結局弟が店を継いだ。エヌ氏は、大学卒業後は大阪に就職し、仕事にかまけ、それからほとんど実家へ帰っていない。

 

五年前に、弟に頼まれ借金の保証人になった。久しぶりに会った弟は、白髪も増え少し疲れているみたいだった。これじゃますます俺の方が年下に見られるじゃないかと、ふと思う。昔からどこか弟に頭の上がらない自分を感じていた。両親は当時すでに70才を超えていた。弟は結婚もせずに両親の面倒を見ていた。本来であれば、長男である自分が店を継ぎ弟がサラリーマンになっているべきだったんじゃないかと思うときがある。俺は今でも係長だが、弟ならきっと部長ぐらいにはなれただろう。弟は、店の経営状況や借金の理由を説明しようとしたが、エヌ氏は詳しいことは聞かず、承諾した。妻にも相談はしなかった。

 

二週間前に弟から電話がかかってきた。店は閉めることになった。本当はもっと早くやめたかったのだが母親が反対をしたので、ずるずる延びてしまった。エヌ氏が保証した借金だが、残高が1500万円ほどになる。保証人にはあまりきついことは言わないと思うが,何か言ってきたら、兄貴の方で、対応してくれないか。兄貴と呼ばれたのは、何年ぶりかと思った。

なぜか現実感を感じなかった。遠い世界の話のような気がした。電話がとても遠くに感じられた。

一週間が経ち、ワイファイナンスから連絡があった。弟の借金は、1800万円ほどであること、今後14.6パーセントの遅延損害金が発生すること、早急に全額返済いただきたいこと、と丁寧ではあるが、東京のなまり言葉がそう告げた。

エヌ氏は、五年前に家を買った際に預貯金のほとんどを頭金につぎ込んだ。いま残っているのは、200万円ほどだと思う。とても、1800万円を返済することはできない。 最近よくCM で聞く「自己破産」という言葉が、頭をよぎった。
自己破産とは何なんだろう。家族、親戚、知り合い、友人、職場にに知られるのだろうか。せっかく買った家はどうなるのだろうか。会社は、やめなくてはならないのだろうか。なにか、罰を受けるのだろうか。家族は一緒に暮らせるのだろうか。現実感はなかった。
自分は一円も使っていない。ただ保証書に署名をし判を押しただけだ。

 

よく分からなくなり、インターネットで見つけた近くの司法書士に相談に行くことにした。ネットで自分の状況を記入し、送信を押した。

 

司法書士は、50過ぎの男性であった。エヌ氏の話を黙って聞いていた。司法書士は、話を聞き終わると、私に「保証人になったことは間違いないですか」と聞いた。弟の顔が浮かんだ。弟は今どんな思いでいるのだろうか。私は、「保証人になったことは間違いない」と言った。
司法書士は、二秒ほど目を伏せ何か考えているようだった。そして、言葉を選びながら話し始めた。
弟さんの借金については、あなたが連帯保証人になっている以上、全額の支払い義務があること。また、債権者としては、あなたに定期収入があり、まためぼしい財産があれば、回収に努めると考えられること。あなたが保証人というだけでは、安易に、減額には応じないこと。今後あなたが任意の支払いに応じなければ、裁判を起こした上、預貯金や給与を差し押さえることも考えられることを説明した。
エヌ氏は、今まで漠然として不安はあったものの、自分がお金を借りたわけではない、保証しただけなんだからなんとかかるだろうとどこかで考えていたが、事態は思っているより深刻だということが分かってきた。
司法書士は「ご自宅以外に何か資産はあります」かと聞いた。
エヌ氏は、自分に財産なんてあるんだろうかと考えた。ふと、娘と楽しそうに話している妻の顔が目に浮かんだ。俺の財産と言えば、家族かなとふと思った。


その後、司法書士は、収入、財産、生活状況について、エヌ氏に聞いた。エヌ氏は、収入、預貯金の額は把握していたがそれ以外は、よく分からなかった。給料は銀行振り込みだし、家計は妻に任せきりだ。結局、妻と相談の上、収入、財産、生活の状況を整理し後日相談を受けることになった。司法書士は、エヌ氏に調べてほしいことをメモで渡しその日の面談を終えた。

 

その日、エヌ氏は、子供が寝てから、妻に話した。妻は弟とは二度ほどしか会っていない。エヌ氏は、妻にどうして保証人になったのかと、怒られるのではないかと思っていた。
エヌ氏は、弟との思い出や、両親の店のことをできるだけ詳しく話した。妻は黙って聞いていた。エヌ氏が話し終えると、妻は泣いていた。エヌ氏が何か言おうとすると、妻は立ち上がって部屋を出ていった。電灯がついており明るいはずの部屋が妙に冷たく感じられた。

 

15分ほど経ったと思う。
妻は、コーヒーを二杯持ってきた。妻は普段はあまりコーヒーは飲まない。したがって、家で二人でコーヒーを飲むことは滅多にない。コーヒーを一口飲んで妻は、「苦いね」と言った。「ねえ、砂糖を一杯入れてくれない」と言った。エヌ氏は、スプーン一杯の砂糖を入れゆっくり15回掻き混ぜた。妻は「やっぱり美味しいね」と言った。結婚前に喫茶店でよく待ち合わせをした。妻は、エヌ氏に合わせて慣れぬコーヒーを注文したものだ。そして、いつもエヌ氏は、一つのコップにスプーン一杯の砂糖を入れ15回掻き混ぜた。そして、もう一つのコップには何も入れずに15回掻き混ぜた。そして「美味しい」というのが二人の間では挨拶代わりになっていた。エヌ氏は、当時のことを思い出し、何か言おうとしたがその前に妻は「ありがとう。いろいろ話してくれて、あなたが家族のことを話してくれるのは初めてよ。私には兄弟がいないので羨ましわ」と言った。
エヌ氏は、自分の中で親兄弟と妻とをそれぞれ別の部屋に分けていたのかもしれないと思った。

一ヶ月後に、妻と一緒にアイ司法書士事務所を訪れた。司法書士から調べてほしいと依頼を受けていた事項は次の通りである。

 

 収入 手取りで35万円 ボーナスは年間70万円ほど
 支出 生活費を差し引き、毎月2万円ほどを預金に回している。
  借り入れは、住宅ローンのみ(返済額は毎月8万円ほどボーナス払いはない)
 預貯金は、180万円
 今退職した場合の退職金の額は、800万円
 生命保険を解約した場合の解約返戻金 100万円
 その他に、財産はない。
 自宅は、現状2800万円ほどが相場だが、ローン残高は、3200万円ほどである。

 ワイファイナンスからの請求額は、
  貸付残高 1600万円 未払いの利息損害金200万円 合計1800万円

 

司法書士は、何かお考えはありますかと聞いた。エヌ氏は妻と話し合ったことを司法書士に告げた。今後妻もパートで働く予定であるとのこと。月々6万円ほどであれば、返済できること。自宅については、オーバーローンではあるが、できる事なら今後も住み続けたいこと、生命保険は、エヌ氏は、二年前に一度倒れたこともあり、今解約すると再加入は難しいのでできればこのまま加入していたいと告げた。
司法書士は、子供の教育について何か考えはありますか。と尋ねた。本人が行きたいと言えば、できれば大学に行かしたいと曖昧に答えた。

司法書士は、エヌ氏の場合は、自己破産は、個人再生の利用が考えられると説明した。
司法書士の説明は、自己破産の場合は、手元に99万円は残すことはできるが、それ以外の財産はすべて(退職金はその8分の1)処分されるとのことであった。自宅は売却のうえ生命保険も解約する必要があること、会社は辞める必要はないが、退職金の8分の1に当たる100万円を別途調達し返済に充てる必要があることを告げた。一方、個人再生の場合は自宅生命保険はそのままでよいが、今後3年間で300万円を返却する必要があることであった。
計算してみると、実際に返済額は、自己破産の場合でも個人再生を選択してもそれほど変わらないことが分かった。エヌ氏夫婦は、個人再生の手続きを選択した。

 

その日の帰り、久しぶりに喫茶店に入った。二人は、コーヒーを二杯注文した。
昔のようにエヌ氏がスプーン一杯の砂糖を入れ15回掻き混ぜた。エヌ氏はすこし考えてから、妻に「俺にも、砂糖を一杯入れてくれない」と言った。妻の顔から笑顔が消え大粒の涙が頬を伝った。エヌ氏は慌てて目を閉じたが、なぜかエヌ氏の目から涙が出るのを止められなかった。
妻は、ぬるくなったコーヒーに砂糖をスプーン一杯入れ丁寧に15回掻き混せた。
甘いコーヒーを二人で初めて飲んだ。
妻は「やっぱり美味しいね」と言った。
エヌ氏は「甘いコーヒーも悪くない」と言った。
エヌ氏がそう言うと妻は微笑んだ。

 

その日久しぶりに実家に電話をした。少しぼけてきている母が電話に出た。エヌ氏は母に弟にありがとうと伝えてくれと言って電話を切った。

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山本英樹司法書士事務所

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