人生は一から始まらない

 無防備に笑ったクマと目があった。人形であるので、実際、笑っているわけではないのだが、クマの顔は、このような目、このような口にすれば笑って見えるのだという見本のような顔だ。地下鉄が揺れるのにともないクマも少し左右にゆれる。クマについたロープが、無表情な目をした女学生のハーフコートのポケットに伸びていた。クマは、女学生のペットであることがうれしくて仕方がないらしい。

 女学生が電車から降りると、広告が目に入った。ポスターの左半分には「債務整理、自己破産、個人再生、過払い」と書いてある、ポスターの右側には健康的な若い女性が先ほどのクマと同じような顔をして微笑んでいる。債務整理が笑って誘うことなのかとふと思った。


 エヌ氏は、最近この手の広告がよく目に付くようになった。27日にはA社へ3万円、28日にはB社へ4万円、C信販会社の引き落としが3万円、月末には家賃の支払い、光熱費の支払いがあり、月末になるとすっかり財布は空になる。その後来月の25日まで、カードで借り入れをして暮らしている。この半年間はその繰り返しである。正確な借入額は考えないようにしているが、300万円以上ありそれも少しずつ増えているのではないかと思う。

 エヌ氏が初めて借金をしたは22歳の時だ。元々預金などしていなかったし、たまたま友人の結婚式が重なり、地元へ帰る旅費もない。普段から仲のいい同僚のワイ氏に相談すると、「俺に借りるよりお店に借りる方が気が楽だよ」と言いA社を紹介してくれた。それまで、金融業者からお金を借りることなど考えたことがなかったが、ワイも借りているのなら自分も借りてもよいかと思い、A社に出かけた。店に入ってみると、照明は明るく清潔な雰囲気である。若い人からお年寄りまで多くの人が出入りしているのには驚かされた。店員に「お金を借りたい」と告げると、窓口に案内された。窓口の女性は笑顔で丁寧に対応してくれた。「10万円ほど貸してほしい」というと、「いざというとこに便利ですから、枠は30万円にしておきましょう」と言われた。そしてうなずいた。その後、細かい説明をされたが、上の空であまり覚えていない。覚えているのは、「月々1万円以上は返済してくださいね」という言葉であった。「1万円でいいのか」そう思った。結局、30万円の枠でカードを作り10万円を借りた。10万円を持って店を出たときお金を借りた後ろめたさなど少しも感じなかった 。


 エヌ氏は、その後、カードを作ったからといって、生活が取り立てて贅沢になったという記憶はない。昼ご飯は以前と同じ会社の近くの食堂で「580円の定食」だ。ただ以前は財布には、千円札が二三枚だったが、カードを作ってからは、1万円札を入れるようになった。月に一二度同僚と飲みに行くとき、以前は割り勘であったのに、気が大きくなり奢ることが増えた気がする。大きな買い物や旅行へ行くことはなかったが、衝動買いで5000円ほどのものなら平気で使えるようになった。
そんなことをしているうちに、週に一度はお金を下ろし、月に一度返済する。そんな生活が定着した。


 気がつくと、3年後には借金は300万円を超えていた。さすがにやばいと思い、節約をするのだが、三ヶ月間節約をしても残高は、3万円ほど少なくなるだけである。何かの弾みで使ってしまうとまた元に戻ってしまう。そんなことを2回繰り返し、アホらしくなった。いつか何とかなると思い、それから残高のことは考えなくなった。そのとき自分の中で何かが壊れたのかもしれない。


 結局、26歳で、返済に行き詰まった。返済が遅れると、債権者から取り立ての電話がかかってくる。ドラマなどでは見ていたが、実際されるとかなりこたえた。自分が打たれ弱いと思った。携帯電話は、極力電源をオフにし、ポストも見ないようになっていった。
 結局自分ではどうしようもなくなり、インターネットで見つけた近くの司法書士に相談に行くことにした。ネットで自分の状況を記入し、送信を押した。


 初めて事務所へ行ったときの緊張感は今でも覚えている。なぜか、小学生の時けんかをして学校に親と一緒に呼び出されたことを思い出した。あの時は先生に怒られることよりも、親に知られ、親の悲しむ顔を見るのがいやだと思った。母親は家では喜怒哀楽を素直に表現する方なので、泣くんじゃないかとも思った。でも、親は少しも悲しい顔をせず、先生に謝っていた。こんな親を見たのは初めてであった。母親にはこんな一面があることを初めて知った。これが大人かとも思った。家に帰っても、普段通り食事をし、お風呂に入ってそして寝た。1週間ぐらいは何か言われるかと思っていたが、結局そのままであった。自分は今でもそのことを少し引きずっている。でも今は横に母親はいない。そんなことを思いながら事務所のドアをノックした。


 司法書士は、私にいすを勧めた。いすに座ると、お茶を入れてくれた。熱いほうじ茶だった。一口飲み、差し出された相談票に名前を記入した。
 司法書士は、斜め前に座り二秒ほど私の目を見つめ、視線を相談票に落とした。次に顔を上げたとき、彼は微笑んでいるようにみえたが、私と目を合わせなかった。私はもう一口ほうじ茶を飲んだ。
 私は、司法書士に、自分の軽率さを怒られるのではないか、軽蔑されるのではないか、なじられるのではないかと考えていたが、彼はまるで感情がないように、借り入れの経緯、生活の状況、仕事のこと、家族のこと、預金そのほかの財産のことを私に質問しメモにとった。
 質問に答えていると、今まで考えるのを避けていた、自分の状況が自分自身でも客観的に感じられるようになった。26歳男性独身 負債額300万円から400万円 収入手取り20万円 資産なし、ただそれだけである。自分にとっては深刻な話ではあるが、世間にはよくある話である。と思った。そう思うと少し楽になった。
 

 一通りの質問が終わると、司法書士は、エヌ氏に対し債務整理の解決方法の説明をした。一般に債務整理には、任意整理、自己破産、個人再生の方法があること、エヌ氏の場合は、任意整理は難しいとの説明を受けた。「どうすればいいですか」と私は尋ねた。私は、司法書士から何か具体的な提案があると思ったが、彼は、少し考えて「一ヶ月間家計簿をつけてみませんか」と言った。それでその日の面談は終了した。私は委任契約にサインをして、事務所を後にした。


 家計簿をつけると言ったものの、はじめは戸惑った。江戸っ子ではないが、宵越しのお金は持たないと言う言葉に、どこかシンパシーを感じる方である。はじめの一週間は帰ってその日に使ったお金を書き出してみようとしたが、めんどくさくて仕方がない。いくらやっても、家計簿と財布の残高と合わない。試行錯誤を重ねながら一週間後には、昼食とたばこ以外だけを意識するようにした。また毎日財布に入れるお金を3000円と決めた。そうすることにより、多少の誤差はあるもののだいたい収支をつかめるようになった。そして、一ヶ月分をまとめると思っているより出費が多いことに気がついた。15万円ほどで暮らせると思っていたが、家賃が6万円、共益費が1万円、光熱費が1万円、携帯電話が1万5千円、食費が5万5千円、たばこ、同僚との飲み会で3万円、これだけで一ヶ月18万円かかっている。月によっては、服や歯ブラシを買わなくてはならない。散髪も行かなくてはならないと思うと、借金が増えたことも納得であった。贅沢していないと自分では思っていたのであるが、収入から考えると使いすぎていたのかと思った。


 エヌ氏は、司法書士が言っていた自己破産、個人再生について考えた。たしかに今の収入では借金全額を返すのは不可能に近い。何らかの法的な手続きはとらないといけないと思う。自己破産と個人再生どちらを選ぶべきだろうか。司法書士は、エヌ氏の場合自己破産は可能だと言った。自己破産をして免責が得られれば債務が返済しなくてよくなるらしい。また、月々2万8000円ほど返済できるのであれば、個人再生も利用できると言った。この場合は三年で返済は完了するらしい。エヌ氏は分からなくなってきた。単に楽だからと言って自己破産でいいのだろうか。借金したのは自分なのに、返済をしないことが本当に得なんだろうか。たしかに、消費者金融会社にとっては、自分が自己破産をしようが、個人再生を選択しようがたいした問題ではないだろう。でもそれが自己破産を選ぶ理由になるのだろうか。また、個人再生を選択し、いくらか返済したからと言って、人に自慢できることではない。エヌ氏は、訳が分からなくなった。でも、今の自分にとって、どちらを選択するかということは、とても大事なことだと思えた。


 エヌ氏は、30歳になった。結局、司法書士に個人再生の手続きを依頼し、この3月で個人再生は終了する。返済の原資を作るために、 同僚との飲み会も回数を減らし、タバコもやめた。でも、そのことはそれほど苦痛ではなかった。
 エヌ氏は、4年前、個人再生の手続きをとると決めたとき、返済が終われば一から人生がやり直せると思っていた。それから自分の本当の人生が始まるんだと思っていた。

 でも今、返済が終わろうとしているのに、何の高揚感もない。確かに来月から返済がなくなり生活は楽になるだろう。でも、一日三回食事をし、仕事をして、たまに酒を飲み、夜は寝る。そんな生活は今までと変わらない。

 今、エヌ氏はこう考えている。今までの人生も、決して悪いことばかりじゃない。借金ができたことも、個人再生を利用したこともあったが、それも含めて自分の30年の人生だ。不思議なもので、今まで貯金などしたことがなかったが、三年間で通帳の残高は60万円ほどになっている。人生を一からやり直すんじゃなく31年目の自分を生きていきたい。少なくとも今までの人生は、踏み台にはなるはずだ。

 

エヌ氏はその日少し飲み過ぎたかなと思いながら眠りについた。

 

 

 

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